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「そのままで」戦争

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"actively intangible"  by nonaromatique (me)

わたしの日々の闘いーそれは買い物するとき、「そのままで」とすかさず素早く言うこと。

 

スーパーに行ってイチゴを買った。(すでにプラスチック包装だが。。)

「そのままでお願いします」とコットンのトートバッグをだして

「これに入れてください」と言った。

「かしこまりました、ご協力ありがとうございます」と店員さん。

次の瞬間、聞くこともなく秒速でビニール袋で包み、テープでとめた。

イチゴの汁がカバンについてしまっては、と思ってくれたのだろうが、(洗えばいいじゃない)

わたしには選択肢が与えられなかったようでちょっと暴力的とさえ思えた。

 

わたしには、レジ袋などのビニールをなるべくつかわなくてもいいように自分なりに努力したい思いがあって、そのままでとお願いした。

わたしからすると、それを小さいビニール袋にいれられたら本末転倒だ。

 

こんなことは日常茶飯事で、疲れてぼーっとしていると聞いて選択肢をあたえられることもなく、袋にいれられてしまうことも多々。

 

レジ袋っていらないじゃない。

エコバッグなんて手のひらサイズだし、すぐ破れるようなレジ袋が溜まっていくよりよっぽど便利なんだけどな。土にもかえらないし。リサイクルもしにくい。

 

日本は包装が丁寧なところはいいところだけど、贈り物ならまだしも、自分が食べるものを買うのにそんな丁寧さがいるとは思えない。

 

とにかく袋がいらないということは、早い段階でいわないといけないし、言っても店員さんが聞いていないことも。。。

 

そしてより大きな声で繰り返す。

「そのままで!」「そのままでお願いします!」

 

まるで戦争みたい。

 

でも、わたしはいらないものはいらないと選択したいのだ。

 

あなたの化粧はあなたのため

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「あなたの顔はあなたのもの」collage by @nonaromatique • Instagram photos and videos (me)

 

化粧ってなんだろう

化粧ってなんでするのかな

化粧ってだれのためだ

某電鉄の広告は、それを考えさせた。(反応がだいぶ遅いけど。いつもブログの下書きばっかり溜まるのだ)

 

どうやら、人前で女性が化粧するのはみっともないらしい。

笑ってしまった。それが広告になったことに。もっと心配すること世の中にあるだろうって、情けなくもなった。

 

そうして、どうして自分は電車の中でしないか考えてみた。

1.朝3〜5分でできるから

2.持ち運ぶのが重い

3.揺れてる中でやるスキルに自信がないから

 

それで電車のなかでする人の理由はいろいろテレビでみたら、以下のとおり。

1.朝忙しくてできない

2.通勤の時間が無駄だから、そこでやる

3.揺れてもできる(スゲエ)

 

お気づきとは思うが、私もする女性も共通しているのは、他人からどう見られているかなんてこれっぽちも気にしていないことだ。

 

みっともないってなんだ。あんたにみせるために電車でやっているのではないだろう。自分が忙しいからだ。

そもそも、化粧は自分のためにやってるのだ。

みっともないって、じゃああんたはどんな化粧をしているんだ毎日。

化粧をすることは恥ずかしいのか。

化粧をしていないひとのことも、そんな年になっても化粧っ気がない、女として恥ずかしいというくせに。

だれだ、体調がわるくて化粧しなかった日に、「顔色悪いね」っていってくるやつは?しんどそうだね、でいいのに。

 

みんなが顔について話すのをやめれば、朝忙しいのに時間をかけて顔をつくらなくていいのにな。

 

わたしの化粧はわたしのため。

あなたの化粧だって、あなたのため。

足るを知る ー普通でいることの勇気ー

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photo by nonaromatique (me)

 

自分自身も、社会も経済も何もかも、いつまでもどこまでも前進しなければいけないのだろうか。

そろそろこれを見直す頃が来たかもしれない。

これを信じて生きて来た自分も、世の中も、景気も、

疲労と、閉そく感と、低迷を経験している。

でもそれらは、前進していないことを否定的に捉えるためにそのように見えるだけではないのか。

いつも前進していなくては正しくないなんて、誰が決めたのだろう。

いま出来ていることを続けることが惰性だなんて、なんて贅沢なんだろう。

いつもみんなと違うことをしていないと価値がないなんて、何の意味があるのだろう。

普通に働けて、住む家がある事だけで充分立派じゃないのか。家族や自分を養っているだけ。それの何が悪いのだ。正しさでしかない。

それ以上の人生なんて、おまけみたいなものだ。

自分が前進したり成長したりすることに自体は、それが他者に影響を及ぼさなかったら、自分のためでしかない。

自分が前進することを、無償で願う者はいない。

働いたら、そのぶんお金をもらうだけ。社会はシンプルなのだ。

それも、世の中には、働いた分ももらえない人もいる。

働いて、生活していける以上のことを飽くなく求めるなんて、結構贅沢なはなし。

その贅沢は、自分の「もっと良くなりたい」より、働いたぶんもらえない人にかえしたい。

普通以上の「もっと」はせめて普通ができない人の「悔しさ」をこの世から減らすべく使われるといいな。

でも、その悔しさは、世の中が、なんでもいつまでもどこまでも、前進していないといけないと信じ込んでいるから、そうでもないと思っている人が、しんどくなって生まれる感情なだけだ。

どっちが正しいとかではない。

どっちでもいいじゃない。

前進するのに疲れたなら、それが正しいかなんて、わからないんだから、やめてしまえ。

そんなことしなくても、続けられることが幸せだ。

その感謝を胸に勝手に誇りをもって、暮らそう。

エゴがそんなにミニマルでもない今のミニマリズムとうまく付き合うには

私はなんと、化粧品で肌を痛めたことから、化学物質が身体にあたえる毒性、環境への悪影響、持続可能性等について思いを馳せるにいたった。

あんなにいろんな化粧品を沢山買い込んで使って、肌に気をくばっていたのについに肌を壊してしまった。

それをきっかけに、自分は必要のない消費をし、肌を良くするところか痛めるようなものを大量に持っていたのではないかと考えるようになった。

(化粧品の毒性については別の記事が書けてしまうところだが)

日本で「ミニマリスト」が流行語大賞にノミネートされたのは2015年で「今更か」という声が聞こえるが、どの「イズム」がいつ・どのように自分の思考を秩序付けるかは、下記に述べるとおり、もっぱら自分自身の決めることである。

それ以前の私は、気をつけていたつもりでも、製品を生み出している企業の姿勢に思いを馳せず、入っている化学物質の危険性にも目もくれず、とても責任ある消費活動、廃棄をしているとはいえなかったし、これからも自分なりの道を模索しつづけると思う。

少ないもので優雅に生きる方法は他者や環境とも調和するものだと信じているからだ。

できるだけ物を無駄にせず、環境にさらに悪い影響を与えずに生きようと考えると必ずミニマリズムという概念に出会うことになる。そしてこれが、「他者や環境とも調和する」か「そんなミニマルでもないエゴ有り」のイズムになってしまうかは、もっぱらこれを実行する人にかかっている。

まずミニマリズムは大きく、芸術面での意味とライフスタイルとしての意味の2つにわけられる。

芸術面でのミニマリズムとは概ね無駄のないデザインや構図を指す(これも詳しく書くと記事がもう一つできてしまう)のだが、これがライフスタイルでのミニマリズムと混同されて、いままで持っていたモノを全部放り投げて、すっきりとしたデザインが「流行っている」から、それと丸ごととっかえてしまえばなんちゃってミニマリズムができあがる、というエゴ満点の悲しい現象も起きている。しかも、ミニマリズム「ちっく」な人々がお互いを、持っているモノのデザインで「ジャッジ」しあって、「それじゃミニマリズムっぽくない」とか言い合ってたいそう不健康なことをやってしまっている。そうして、ミニマリストはついに「金持ちのくだらない趣向」と批判されるに至る。だって、本当にお金がなかったら沢山のモノなんてそもそも持てないし、そこから見てくれだけ脱却しようとして「すっきりとした」デザインのものに総入れ替えなんてできっこないのだから。

しかもさらに最悪なことに、ライフスタイルとしてのミニマリズムには往々にして捨てることばかりに注目が集まっている。そして、最も大きな問題は圧倒的に捨てたものに対する責任が欠如していることである。

大量にモノを捨てることはセンセーショナルでドラマチックで、どうしても目が行きがちなのだろう。

しかし捨てることはあくまで単なる過程の一つであり、目的ではないしそれが目的になってはいけない。

本来、ライフスタイルとしてのミニマリズムで重要なのは、自分の持つモノに対して責任をもつことである。責任のある消費、所有することを身につけることである。

自分の所有するものに責任をもつのは、元来自分のためでしかないし、そうだから余計に当然にしてよいこと・よかったはずのことなのである。それができてなかったことに、私たちが今更気付いただけなのである。しかも、それでどれだけの量のモノをもつかも、どんなモノをもつかも、いたって個人の管理するところにある。

たくさんのモノに埋め尽くされ、モノに奪われていた空間へのコントロールを取り戻して、生活を整理し自分にとっての秩序を他の誰でもない自分で創りなおすのである。

そうすることを原点として、最終的にはより循環型社会に貢献できるような責任ある消費・所有をすることに目をむけるための「イズム」なはずなのである。

しかし、「こんまり」こと近藤麻理恵さんがその波の重要な部分を担っていた日本でのミニマリズムは、あまりにも「捨てる」ことに注目が集まりすぎていて、まるで自分の「捨てまくったモノ」に対する責任については語られていない。

「僕たちにもうモノは要らない」なんて(そんな本があるけれど)、世界中にはモノがなくて困っている人々がたくさんいるのに、そんなエゴイスティックなことがよく言えたものである。もう自分には興味がないモノを捨てまくったあげく、ゴミは無責任に扱い、自分だけがすっきりして、どこでどうつくられたか知ろうともしないで「すっきり」としたデザインのものをちょこっとだけそろえて、「はい、ミニマリストになれました!」とか言って一人で満足するなんて、なんていう贅沢者なんだろう。

「人生がときめく片付けの魔法」(こんまりさん著)では、家からゴミ袋20袋がでてきたケースがあったという。しかし、どんなに「ときめく」かどうかで残すものを選んでも、もしその中の「ゴミ」がきちんと分別され、リサイクルされるよう責任をもって廃棄されていなかったら、もしその中でまだつかえるはずのものがただ「面倒だから」とか「よく知らないから」といってきちんと寄付されていなかったら、片付けたその人たちは勝手にときめいても、環境も、モノが足りなくてモノを必要としている人は全く「ときめく」こともない。

もっともこの本には捨てたモノには感謝するように書いてあるけれど、そのあとどうなったは書いていないから、もしかしたらちゃんと処分しているかもしれない。でも私は捨てたものをどうすべきかについて、まったく書いていないことが問題だと言いたいだけなのだ。

しかし、もしこのイズムを実行しようとする人が、自分の捨てるものにもきちんと責任をもち、できる分は寄付を行い、そうすることでこれからより責任ある消費、所有を行おうとするのであれば、ライフスタイルとしてのこのミニマリズムの波は、流行として扱われるだけにしてはまさに「もったいない」。なぜなら、モノに支配されていた人は自分にとっての本当の豊かさを取り戻し、また寄付やリサイクルにつとめることで、より循環型社会・持続可能性に貢献することができるからである。モノが必要だった人は、新しくモノを製造しなくても、それを新しく買うよりも安く手軽に手にすることができるかもしれないのだ。

ミニマリズムは、本来自他ともに「善く」生きられるためのものだ。そうあってほしい。

ではモノに奪われていた空間へのコントロールを取り戻して、生活の秩序を他の誰でもない自分で創りなおすにはどうすればよいか。

私が実際にやってみたことを挙げてみようと思う。

私の部屋は服がたくさんあった。ヴィンテージや古着のコートや、リサイクルショップで買った服や、ユニクロのものなど。

まず特に服について、まず何を目標にしたいか考えてみた。

私は衣替えというやつが大嫌いである。

そして朝服選びに1秒も迷いたくない。

では衣替えをしなくていいタンスを目指せばよい。

迷わなくていいように、自分のお気に入りの服だけで、自分のためだけに制服のように決まったスタイルででかければよい。

世の中の多くの人が季節がかわるごとに衣替えをしているからといって、自分がしないといけない理由はない。めんどくさい。それに、全部見えるところにあったほうが、春や秋など気温の変化が激しく微妙な季節のときにうまく対応しやすいのだ。

この目標の設定の仕方については、先ほど言及したこんまりさんの本を参考にした。こうした目標の設定の仕方や、片付けの目指すところについては、私は彼女の言うことに共鳴した部分も多々あった。

要するに、彼女いわくとりあえずものをなくす!という方向に走るのではなくて、自分がどういう空間に居たいかをまずよく考えるべきだというものである。

これは、先述した、「生活を整理し自分にとっての秩序を他の誰でもない自分で創りなおす」べきだという私個人の考えと共通点が見出せる。

それで、私個人はなかなか「ときめく」という感情で、ポジティブな状況を感受しないので、「お気に入り」「好き」かどうかだけで取捨選択していった。

そのあと、まだ十分着れるがどうしても自分の価値観の変化などで、そのカテゴリーに落ちなかったものは、すべて寄付した。160サイズで2個のダンボールの量になった。(フクサポを活用)

私は、今まで上から目線になるのがいやで、寄付というものを素直に受け止められなかった。モノが必要なのにモノがないなんて不公平だ、なんて考えるのは自分が日本にいるからだけなんじゃないだろうかと思っていた。

しかし、先述したように、世界には日本のように簡単に洋服を手にいれることができない人もいるのも現実である。たったダンボール2箱が世界を救えると思っていないが、私自身を必ずしも幸せにはしていないものが、誰か他の人を幸せにすることができるなら、燃やしてしまうよりよっぽどいい。

しかし寄付してみて感じたのは、寄付することは想像するほど簡単ではないということである。ある種の服は受け付けない団体や、寄付「代」が何千円もかかってしまうものなど。自分としては、寄付される団体側「手間賃」として払うより、通常の「寄付金」として払う方がすんなり理解できる。また、洋服をその団体に送付してもなぜかリサイクルする!と主張するところもある。リサイクルとは響きがいいかもしてないが、リサイクルするにはその過程でたくさんの化学物質やエネルギーが消費される。できればそれをしたくないから、洋服を洋服のまま物品寄付したいのだから、それができてかつその洋服が結局どこに行って誰のためになっているかきちんと活動実績が書かれているところを検索したのだが、5本の指で数えるほどしか団体がなかった。難しい。カナダには、寮の地下や住宅の近くに寄付用の箱がどこにでも置いてあって、気負わずに寄付ができたのに。

とにかく、物品寄付があまり簡単ではないのは別の記事が書けそうなくらいの問題であるにしても、Verena Erinもいうように自分が捨てるものにはきちんと責任を持つべきである。

まだ使えそうなものはできるだけ寄付するようにし、生分解されないものはきちんとリサイクルされるようにすべきである。

もし、自分の所有するものや捨てるものに責任をもち、自分のする消費にも目を向けることをもって、自分をミニマリストと言える人が増えたなら、「ミニマリストなんて金持ちのくだらない趣向だ」という批判は当たらなくなるだろう。Guardianの記事には、ミニマリズムを話題にするとき、社会経済的ステータスの恵まれた人しかできないのでは、という論点に決定的に欠けているとあった。それは、先述したように、芸術面でのミニマリズムとライフスタイルでのミニマリズムと混同されて、すっきりとしたデザインに丸ごととっかえてエゴ満点のなんちゃってミニマリズムをやっていれば、の話である。

自分の消費行動や持つモノにきちんと責任をもって自分で創り上げた秩序ある空間に住まわせ、捨てるモノにも社会的責任をもち、最終的にはより循環型社会・持続可能性に貢献できるような、自他共に「善く」生きるためのミニマリズムならば、経済力関係なしにできる。

自分さえ良ければ、すっきりしていればいいというエゴこそ「ミニマル」にすることがミニマリズムなのである。

人間がする合意と人間の尊厳

人間と人間がする合意は、紙面上のものだったとは。

人間とその合意には社会的尊敬がなかったとは。

合意が、人間の尊厳への危害を正当化するとは。

こんな事はもう実感として、四半世紀生きてきてわかっているはずだと思っていた。そして、わかっている事で自分自身が無駄な諦めをしてきたことも。

高畑裕太氏が世間を騒がせたことで、私の封印されたニヒリズムは目が覚めた。彼のやったことは、刑法上成立しないとしても、強姦致傷であった。彼は、当初自分は大変なことをしたと語った。そうして、所定の手続きを終えたあと、彼の弁護士は語った。「合意のうえともとれる行為であった」

それを読んだとき、世間は彼が語った言葉との食い違いに疑問をもった。

それを読んだとき、犯罪学をやった自分は、文字通りに読んだ。

そして、世間が、食い違いにばかり疑問をもつことに驚き、失望した。

結局強姦罪は、その本質として親告罪である。日本のこの罪にかんする条文には、対象が女性でなければならないとか、準強姦という罪の存在など、それだけで本が書けてしまうような問題が山積している。

しかし問題は、強姦罪の成立は世界的にも、合意した上での行為かどうかに重点が置かれていることにあると思う。

これでは、人間がする合意はただの条件でそして記号で、まるで尊敬がない。これでは、その合意はまるでただの法的記号のようだ。

合意したとかしていないとかそういうことではない。人間が存在しうる最も無防備な状態で、他の人間を恐怖に陥れ、暴力を振るったり、怪我をさせたりして、その人間の尊厳を壊すことに、この罪の本質はあるべきだ。

一体どの人間が、自分の基本的な尊厳を失うことに自ら合意するのだろうか。

強姦は合意しない性行為ではない。強姦は支配なのである。

れっきとした、他の人間の尊厳にたいする支配である。

たとえ、当事件における女性が、部屋に入ってしまったことが彼女の職務上の規定やプロフェッショナルであることに反するとしても、話は別だ。彼女が強姦されたくて部屋に入ったはずはない。

もし世間のいうように彼女が彼を騙してお金をとろうとしたとしても、こうした事件が起こることから彼が自分を守る方法はいくらでもあった。それに、仮に騙されたのだとしても、それは彼が数多くの女性(彼の場合は)に対して継続的に以前から同様のことをしていたことの報いでしかない。

騙されたら、他の人間を恐怖に陥れ、暴力を振るったり、怪我をさせたりして、その人間の尊厳を壊してもよいのか。

合意があれば、他の人間の尊厳にたいする不法な支配をしてもよいのか。

これなら、5歳児でもわかる:見た目で嫌がっていなければ、人を怖い目にあわせていいのか。

これではまるで、合意は不正な行為への青信号である。

これではまるで、人間の尊厳は置いてけぼりだ。

どうか、彼がだまされたとか、病気だったなどと吹聴して、

この国で、人間のする合意と人間の尊厳が、重んじられていないことをこれ以上より強固に証明しないでほしい。

これについて私のできることはただ一つ、こうしたものを書いて人間と話すことで、1ミリでも人間のする合意と人間の尊厳を取り戻す努力をすることかもしれない。

Do I have to grow my armpit hair to be a feminist?

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collage by nonaromatique

The answer is no. Feminism should not be reduced into something trivial or personal. It should be something broad and common to connect women around the world. I would rather see the world never discussing anything like this.

Feminism is essentially about equality. If equality also refers to the same amount of exposure or attention to hair of men and women, these discussions are not even remotely relevant. I do not understand why no one would question photos of men shaving their armpit hair not trending at all.

Moreover, if we really get into this whole hair discussions we should be also talking about hair in other areas as well (i.e. pubic hair)

Men wearing high heels — they rarely make their decision a political statement because they do not have to. Nevertheless women had to make their personal choice to grow armpit hair public, political and even a trend.

This difference should be discussed as gender inequality issue. Having to making it a trend itself is a problem. We are addressing something totally misdirected. Also we have a number of issues to be solved; inequality in payment, violence against women, sexual harassment at work….

So why armpit hair? An advocate for growing armpit hair explains: “we are challenging the norm of beauty” Wait, wasn’t short hair/ tom boy hair also a big challenge to the norm of beauty? Aren’t we always challenging the norm of beauty and isn’t that exactly what pursuing beauty is all about?

Is preference for armpit hair anyway different from one for your hair style? Is it anyway different from your preference for your pubic hair? NO, NO, NO.

Why do you make it so sensational? It’s hair in the end. Just hair. Let’s just not talk about it anymore. It merely degrades feminism, which is lamentable.

空気について

空気とは何か。

空気とは何でないか。

空気とは遠慮である。静かな圧力である。

空気とは、思いやりではない。団結ではない。

空気は押し付けである。

空気はルールではない。

空気は多数者の支配である。

空気は道徳ではない。

空気とは見ざるを得ないものである。

空気とは見えるものではない。

空気とは見ざるを得ないから読めるものである。

空気は見えないものであるから、読めるはずのものではない。

空気は、自分を守るために、読む能力は必要である。

空気は、自分の自由のために、読んだ上で読まない事も必要である。

空気とは全てである。

空気とは何でもない。