犯罪の相対性

犯罪という概念はおもに法律や人々の文化などを背景にした規則によって創造され、それは決して絶対的なものではない。法律や規則が存在しない場合には犯罪は存在しないか、人々はそれを犯罪だとは考えない。

そして犯罪とは、人々がある行為やある集団を自分たちとは異質である、つまり逸脱であると認め、その行為や集団を排除することから始まる。その逸脱の度合いが酷いと認められたとき罰することを可能にする法律が創造され、究極においやられた逸脱は犯罪として認識されるに至る。

この論文では、こうして形成された逸脱の究極としての犯罪概念の相対性に焦点をあて、多くの刑事政策の背後にある排除的な多数支配を批判したうえで、刑事司法のあり方について考える。

ラベリング理論と逸脱

ここでは犯罪を逸脱の究極としてみることの基礎となる、ラベリング理論についてかく。

① ラベリング理論とは

ラベリング理論とは1963年にベッカーが自身の著作で唱え始めたものである。この理論を一言で紹介すると以下のようになる。およそ全ての社会集団は、多数派の考える正しい行動を規則(法律・暗黙の合意)として施行していく。それに反対するものをアウトサイダー(outsider)というラベルを貼って(=ラベリングをして)排除し、少数派にする。そして追いやられた少数派にとって多数派はアウトサイダーなのである。

つまり、ベッカーが言いたいのは、どちらがアウトサイダーになるかはある一定の時間・空間において何が多数派、正しいとされるかに左右される相対的でいわばいい加減なものであるということだ。だからこそ規則を作る方と排除される方両方をみなければならないのである。

② 逸脱

そして逸脱はラベリングという相互作用の帰結・結果である。排除された者は逸脱者となる。そして犯罪はその逸脱のなかでも、逸脱度が究極であると多くの社会でラベリングされている。

犯罪概念の相対性

ここでは犯罪という概念がいかに恣意的で相対的かについて述べる。

犯罪=「行為と反応の統一体」

犯罪というとある種の行為のことであると言う人は多いが、実際は二つの要素から成り立っている。一つは人間の行ったある種の行為であり、もう一つはその行為に対する社会や国家の反応である。行為だけでは犯罪は成立しない。そして時間(時代)と空間(社会)によって大きく変化するのは反応のほうである。

反応の変化の例

空間による違い:銃所持

日本と中国では銃の所持が犯罪とされるのに対し、米国では権利とされている。

時間による違い:不倫

現在とは全く違って、かつての日本・中国・米国すべてにおいて不倫つまり姦通は犯罪とされ、厳しい刑罰を科せられていた。

「反応」=ラベリング

アウトサイダーとしてラベルを貼ることによって逸脱=犯罪を創出するのであり、犯罪という概念の創出はまさに行為と反応としてのラベリングの相互作用である。

行為だけでは犯罪は成立せず、時間(時代)と空間(社会)によって大きく変化するラベリングという反応があってはじめて成り立つのである。したがって、犯罪は時間と空間に左右されるという相対性をもつ。

ラベリングと厳罰化・ラベリングと死刑

ここでは、反応としてのラベリングという相対的な多数支配と深い関連のある厳罰化と死刑についてそれぞれの問題点を批判したい。なぜなら、文明化とは国家や社会が死刑や拷問から脱し、非犯罪化と非刑罰化にむかって進んでいくということであるのに対し、厳罰化はまさに退行現象であり、死刑はそれに反抗するものであるからである。

ラベリングと厳罰化

「治安が悪くなった」という社会の多数者のもつ恣意的なイメージや感覚は数字とは関係がない。なぜなら、100件の普通の犯罪が増えた場合よりもたった1件の異常な犯罪のほうが人々に治安の悪化という感覚を植え付けうるし、マスメディア等が犯罪事件をセンセーショナルに取り上げることで人々は高頻度・長時間その情報に接することになり、犯罪事件がふえたような錯覚を覚えてしまう。そして殺人事件だけをとりあげても人口一人あたりの件数はむしろ減少している。

厳罰化とは、そういった多数者の反応という「ラベリング」にのみ基づいた恣意的なものであり、「政策」という名に値しない。従って非犯罪化という文明化に真っ向から逆行する現象であると考える。しかも仮に犯罪が増加していたとしても、厳罰化が犯罪の減少に効果的に貢献することを証明した研究は未だ存在しないため厳罰化は現状の改善等にも貢献し得ないであろう。

ラベリングと死刑

死刑という絶対性の極めて高い刑罰は、ラベリングという相対性の高い過程の帰結として想像された犯罪に対する刑罰として不均衡であると考える。

死刑が絶対性を持つ理由

・ ある社会集団からの排除の究極の手段である

死刑ほど絶対的な排除の方法はない。なぜなら死刑はその者の生命を奪い、存在を永遠に抹消しようとするからである。

・ 取り返しがつかない、やり直すことができない

懲役刑、罰金刑などは犯罪のレベルに応じて相対的に量・程度の調節ができるが、死刑は生命を奪うという結果を生じる行為で、その行為の程度の調節は不可能である。

厳罰化と死刑は、ラベリングという相対的な多数支配に翻弄されたものであり、非犯罪化と非刑罰化にむかって進んでいく文明化にたいし反抗する現象であり、犯罪を取り巻く状況に何ら貢献するものでないと批判する。

刑事司法のあるべき姿

刑事司法は多数決原理に服従するのではなく、少数者やアウトサイダーをも包摂するものであるべきだと主張する。

民主主義という、多数者の力の支配から刑事司法から引き離すことは、多数決で解決できない問題を、法治主義的に解決しようとする刑事司法のそもそもの存在意義を喚起し、全ての社会を犯罪に対して文明的に対処する原点になると考える。

参照:王雲海「日本の刑罰は重いか軽いか」、吉岡一男「ラベリング論の諸相と犯罪学の課題」