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カワイイのもつ危険性

カワイイとは、往々にして弱い事である。

何かができないことであり、それに良い意味がつけられたともいえる。

それは初々しさや素直さとは構造を異にする。

もし、カワイイがこの意味で独り歩きし続けるなら、

そしてその独り歩きが女性側に専属し続けるならば、

それは女性が伝統的な不平等を客観視しないでそれを甘受するのを促進すると考える。

だから我々女性自身がそれに目をむけて気づく必要があると思う。

誤解なき様に言えば、私はかわいいことが悪いとおもうのではない。

その言葉にたいして、社会が付しているレッテルと期待に否定的な効果があると言っているのである。

なぜなら、現在の一般的な意味でのカワイイというのには、何かが出来ないこと、小さくて弱い事、助けが必要な事、だれかの言う事をきくことという意味が含まれているからである。本来は可愛いの漢字の通り、愛することができる価値をさすはずである。そこには弱さや小ささ、服従性などが含まれる論理的必然性は存在しない。

何かが出来ないことが良い価値をもつことは通常ではほとんどない。我々は幼少期、かけ算やら逆上がりができないことは決して良い価値はもたなかったではないか。

それなのにどうして急に女が良い年になったとき、何かができないことが良い価値をもつのか?

それは、何かが出来ないことや、助けが必要であると言った意味をカワイイという言葉で処理して良い意味をつけることで、女性は沢山のことができなくていい、誰かの言う事をきいていれば良いということを女性に潜在的に意識づけるためである。そしてどうしてこの植え付けが必要なのか。それは、女はいい年になれば誰でも、この世界が歴史的に男性中心に動いてきた事に気づくからである。そして、女性も男性も含んだ全体としての社会は、その怠惰性を発揮するばかり、これに女性が気づこうとするのを防ごうとするのである。

したがってこの意味でのカワイイが独り歩きし続けるとき、そして、女性自身がこれに目をむけないとき、自分たちが何かができなくていい、できないほうがいいと考えるにいたる。私はここに危険性があるというのである。つまり、これでは女性自身が自らが、なにかができないことを正当化したり、また社会からそう差別をうけたりする事を甘受するのを促進してしまうということである。

カワイイのもつ危険とは、女性に対して存在する観念を客観的に見直すことから社会の気をそらせ、むしろそれを促進し、その観念を改革することを先送りにする危険の事である。

私がここで批判したいのはカワイイの危険性の側面だけであり、その言葉そのものではない。実際に、カワイイという言葉が初々しさ、素直さという意味で使われるなら批判のしようはない。なぜなら、いつでも初心を忘れない事、人の意見を素直に聞き入れる事は、自分の精神の軸がある強いひとの出来ることだからである。

そして私は弱い事や何かができない事が悪いと言っているのではない。それをそのままでいいとおもったり、それをまっすぐに認めて改善できない姿勢が悪いといっているのであり、それを助長する意味でしかカワイイが使われない時、先述のような危険性があると言っているのである。

最後に、フェミニズムとは平等を提唱しているだけで、女性が男性を責めるものでないと主張したい。人を責めるだけのものはフェミニズムに値しないし、もしそれらのせいでフェミニズムが間違った評価をうけているなら、私はそれを提唱するひととなにもわからず批判する人々を論破する準備はできている。