SAVE ECO SAVE MONEY

ゼロウェイスト、ミニマリズム、オーガニック。環境にやさしく、お金をかけず、自分にやさしく。

エゴがそんなにミニマルでもない今のミニマリズムとうまく付き合うには

私はなんと、化粧品で肌を痛めたことから、化学物質が身体にあたえる毒性、環境への悪影響、持続可能性等について思いを馳せるにいたった。

あんなにいろんな化粧品を沢山買い込んで使って、肌に気をくばっていたのについに肌を壊してしまった。

それをきっかけに、自分は必要のない消費をし、肌を良くするところか痛めるようなものを大量に持っていたのではないかと考えるようになった。

(化粧品の毒性については別の記事が書けてしまうところだが)

日本で「ミニマリスト」が流行語大賞にノミネートされたのは2015年で「今更か」という声が聞こえるが、どの「イズム」がいつ・どのように自分の思考を秩序付けるかは、下記に述べるとおり、もっぱら自分自身の決めることである。

それ以前の私は、気をつけていたつもりでも、製品を生み出している企業の姿勢に思いを馳せず、入っている化学物質の危険性にも目もくれず、とても責任ある消費活動、廃棄をしているとはいえなかったし、これからも自分なりの道を模索しつづけると思う。

少ないもので優雅に生きる方法は他者や環境とも調和するものだと信じているからだ。

できるだけ物を無駄にせず、環境にさらに悪い影響を与えずに生きようと考えると必ずミニマリズムという概念に出会うことになる。そしてこれが、「他者や環境とも調和する」か「そんなミニマルでもないエゴ有り」のイズムになってしまうかは、もっぱらこれを実行する人にかかっている。

まずミニマリズムは大きく、芸術面での意味とライフスタイルとしての意味の2つにわけられる。

芸術面でのミニマリズムとは概ね無駄のないデザインや構図を指す(これも詳しく書くと記事がもう一つできてしまう)のだが、これがライフスタイルでのミニマリズムと混同されて、いままで持っていたモノを全部放り投げて、すっきりとしたデザインが「流行っている」から、それと丸ごととっかえてしまえばなんちゃってミニマリズムができあがる、というエゴ満点の悲しい現象も起きている。しかも、ミニマリズム「ちっく」な人々がお互いを、持っているモノのデザインで「ジャッジ」しあって、「それじゃミニマリズムっぽくない」とか言い合ってたいそう不健康なことをやってしまっている。そうして、ミニマリストはついに「金持ちのくだらない趣向」と批判されるに至る。だって、本当にお金がなかったら沢山のモノなんてそもそも持てないし、そこから見てくれだけ脱却しようとして「すっきりとした」デザインのものに総入れ替えなんてできっこないのだから。

しかもさらに最悪なことに、ライフスタイルとしてのミニマリズムには往々にして捨てることばかりに注目が集まっている。そして、最も大きな問題は圧倒的に捨てたものに対する責任が欠如していることである。

大量にモノを捨てることはセンセーショナルでドラマチックで、どうしても目が行きがちなのだろう。

しかし捨てることはあくまで単なる過程の一つであり、目的ではないしそれが目的になってはいけない。

本来、ライフスタイルとしてのミニマリズムで重要なのは、自分の持つモノに対して責任をもつことである。責任のある消費、所有することを身につけることである。

自分の所有するものに責任をもつのは、元来自分のためでしかないし、そうだから余計に当然にしてよいこと・よかったはずのことなのである。それができてなかったことに、私たちが今更気付いただけなのである。しかも、それでどれだけの量のモノをもつかも、どんなモノをもつかも、いたって個人の管理するところにある。

たくさんのモノに埋め尽くされ、モノに奪われていた空間へのコントロールを取り戻して、生活を整理し自分にとっての秩序を他の誰でもない自分で創りなおすのである。

そうすることを原点として、最終的にはより循環型社会に貢献できるような責任ある消費・所有をすることに目をむけるための「イズム」なはずなのである。

しかし、「こんまり」こと近藤麻理恵さんがその波の重要な部分を担っていた日本でのミニマリズムは、あまりにも「捨てる」ことに注目が集まりすぎていて、まるで自分の「捨てまくったモノ」に対する責任については語られていない。

「僕たちにもうモノは要らない」なんて(そんな本があるけれど)、世界中にはモノがなくて困っている人々がたくさんいるのに、そんなエゴイスティックなことがよく言えたものである。もう自分には興味がないモノを捨てまくったあげく、ゴミは無責任に扱い、自分だけがすっきりして、どこでどうつくられたか知ろうともしないで「すっきり」としたデザインのものをちょこっとだけそろえて、「はい、ミニマリストになれました!」とか言って一人で満足するなんて、なんていう贅沢者なんだろう。

「人生がときめく片付けの魔法」(こんまりさん著)では、家からゴミ袋20袋がでてきたケースがあったという。しかし、どんなに「ときめく」かどうかで残すものを選んでも、もしその中の「ゴミ」がきちんと分別され、リサイクルされるよう責任をもって廃棄されていなかったら、もしその中でまだつかえるはずのものがただ「面倒だから」とか「よく知らないから」といってきちんと寄付されていなかったら、片付けたその人たちは勝手にときめいても、環境も、モノが足りなくてモノを必要としている人は全く「ときめく」こともない。

もっともこの本には捨てたモノには感謝するように書いてあるけれど、そのあとどうなったは書いていないから、もしかしたらちゃんと処分しているかもしれない。でも私は捨てたものをどうすべきかについて、まったく書いていないことが問題だと言いたいだけなのだ。

しかし、もしこのイズムを実行しようとする人が、自分の捨てるものにもきちんと責任をもち、できる分は寄付を行い、そうすることでこれからより責任ある消費、所有を行おうとするのであれば、ライフスタイルとしてのこのミニマリズムの波は、流行として扱われるだけにしてはまさに「もったいない」。なぜなら、モノに支配されていた人は自分にとっての本当の豊かさを取り戻し、また寄付やリサイクルにつとめることで、より循環型社会・持続可能性に貢献することができるからである。モノが必要だった人は、新しくモノを製造しなくても、それを新しく買うよりも安く手軽に手にすることができるかもしれないのだ。

ミニマリズムは、本来自他ともに「善く」生きられるためのものだ。そうあってほしい。

ではモノに奪われていた空間へのコントロールを取り戻して、生活の秩序を他の誰でもない自分で創りなおすにはどうすればよいか。

私が実際にやってみたことを挙げてみようと思う。

私の部屋は服がたくさんあった。ヴィンテージや古着のコートや、リサイクルショップで買った服や、ユニクロのものなど。

まず特に服について、まず何を目標にしたいか考えてみた。

私は衣替えというやつが大嫌いである。

そして朝服選びに1秒も迷いたくない。

では衣替えをしなくていいタンスを目指せばよい。

迷わなくていいように、自分のお気に入りの服だけで、自分のためだけに制服のように決まったスタイルででかければよい。

世の中の多くの人が季節がかわるごとに衣替えをしているからといって、自分がしないといけない理由はない。めんどくさい。それに、全部見えるところにあったほうが、春や秋など気温の変化が激しく微妙な季節のときにうまく対応しやすいのだ。

この目標の設定の仕方については、先ほど言及したこんまりさんの本を参考にした。こうした目標の設定の仕方や、片付けの目指すところについては、私は彼女の言うことに共鳴した部分も多々あった。

要するに、彼女いわくとりあえずものをなくす!という方向に走るのではなくて、自分がどういう空間に居たいかをまずよく考えるべきだというものである。

これは、先述した、「生活を整理し自分にとっての秩序を他の誰でもない自分で創りなおす」べきだという私個人の考えと共通点が見出せる。

それで、私個人はなかなか「ときめく」という感情で、ポジティブな状況を感受しないので、「お気に入り」「好き」かどうかだけで取捨選択していった。

そのあと、まだ十分着れるがどうしても自分の価値観の変化などで、そのカテゴリーに落ちなかったものは、すべて寄付した。160サイズで2個のダンボールの量になった。(フクサポを活用)

私は、今まで上から目線になるのがいやで、寄付というものを素直に受け止められなかった。モノが必要なのにモノがないなんて不公平だ、なんて考えるのは自分が日本にいるからだけなんじゃないだろうかと思っていた。

しかし、先述したように、世界には日本のように簡単に洋服を手にいれることができない人もいるのも現実である。たったダンボール2箱が世界を救えると思っていないが、私自身を必ずしも幸せにはしていないものが、誰か他の人を幸せにすることができるなら、燃やしてしまうよりよっぽどいい。

しかし寄付してみて感じたのは、寄付することは想像するほど簡単ではないということである。ある種の服は受け付けない団体や、寄付「代」が何千円もかかってしまうものなど。自分としては、寄付される団体側「手間賃」として払うより、通常の「寄付金」として払う方がすんなり理解できる。また、洋服をその団体に送付してもなぜかリサイクルする!と主張するところもある。リサイクルとは響きがいいかもしてないが、リサイクルするにはその過程でたくさんの化学物質やエネルギーが消費される。できればそれをしたくないから、洋服を洋服のまま物品寄付したいのだから、それができてかつその洋服が結局どこに行って誰のためになっているかきちんと活動実績が書かれているところを検索したのだが、5本の指で数えるほどしか団体がなかった。難しい。カナダには、寮の地下や住宅の近くに寄付用の箱がどこにでも置いてあって、気負わずに寄付ができたのに。

とにかく、物品寄付があまり簡単ではないのは別の記事が書けそうなくらいの問題であるにしても、Verena Erinもいうように自分が捨てるものにはきちんと責任を持つべきである。

まだ使えそうなものはできるだけ寄付するようにし、生分解されないものはきちんとリサイクルされるようにすべきである。

もし、自分の所有するものや捨てるものに責任をもち、自分のする消費にも目を向けることをもって、自分をミニマリストと言える人が増えたなら、「ミニマリストなんて金持ちのくだらない趣向だ」という批判は当たらなくなるだろう。Guardianの記事には、ミニマリズムを話題にするとき、社会経済的ステータスの恵まれた人しかできないのでは、という論点に決定的に欠けているとあった。それは、先述したように、芸術面でのミニマリズムとライフスタイルでのミニマリズムと混同されて、すっきりとしたデザインに丸ごととっかえてエゴ満点のなんちゃってミニマリズムをやっていれば、の話である。

自分の消費行動や持つモノにきちんと責任をもって自分で創り上げた秩序ある空間に住まわせ、捨てるモノにも社会的責任をもち、最終的にはより循環型社会・持続可能性に貢献できるような、自他共に「善く」生きるためのミニマリズムならば、経済力関係なしにできる。

自分さえ良ければ、すっきりしていればいいというエゴこそ「ミニマル」にすることがミニマリズムなのである。